自由に生きるにはそれ相応の覚悟と戦略と努力を要する。

日常の中で窮屈に感じる時『自由に生きたい』と思う。何かに制限され不自由を感じる場面は幾つかあるが、①お金 ②時間 ③健康 ④仕事 ⑤人間関係は、特に大きな要素を占めると思う。

現在感じている不自由な点

実際、今自分が感じている不自由さとしては

・家と職場の通勤時間に拘束されている
・店のテナント料に固定費を圧迫されている
・毎月の家賃に固定費を圧迫されている

といったことが挙げられる。

お金の問題、時間の問題が今の自分にとっては課題であり、一方で健康と人間関係の部分においては課題感はない。

独立することで得られる自由

健康的な生活を得て、煩わしい人間関係と無縁な生活を送られているのは、独立して自分の店を持ったからであり、この点には自分としては大きなメリットを感じているし、そのため多くの方にも独立を勧めたい。

もちろん独立するという決断には不安も伴うが、それ以上に得られる自由度は大きい。

なるべくリスクを抑えた状態で、不安をミニマムに抑えつつ、独立する形なら尚良い。

この点は、少し自分への戒めもある。

まぁ、やってみなければわからなかった部分もあるのだが..

固定店舗を持つことのデメリット

固定店舗での出店という経験を通じて今思うのは、

これからはなるべく
・テナント料という固定費
・日々拘束される通勤時間

から解放された働き方を実現したいということである。

当初の独立の目標の一つである家族との時間を増やすということは実現できつつも、食住隣接という点については今は実現できていない。

開業のタイミングは自由に選べたが、出店エリアを自由に選べなかったのは、不動産の空き状況という、自分のコントロールの及ばない部分があったからでもある。

固定店舗を持つことで見えた不自由さは他にもある。

例えば固定店舗に営業エリア、商圏が限られること。市場が大きければ気にならなかった部分だが、今はネックになっている。

他にも、簡単に撤退できない(原状回復費用など金銭的に負担がかかる)ことや、引っ越しや移住が気軽にできない(店舗に通える範囲に限られる)こともある。

丁度娘が生まれて、改めて食への関心が高まり、半農生活にもアンテナが経ち、仕事の目処さえ付けば本来は自由に住む場所を変えられるのだが、これも固定店舗で制限される。

(こうして書いてみると、なかなかデメリットが大きいことが見えてくるものだ笑)

固定店舗に来店するお客さんの1番の来店動機は「近いから」

そして固定店舗に来店するお客さんの来店動機として1番多いのが『近いから』という点であることにも、思うことがある。

それは、自分をわざわざ選んで来てるわけではないということへの物足りなさ。

つまり、自分でなくてもいい仕事、他の人、他の店でもいい仕事であれば、そこまで重要度が高い仕事ではないのかもしれない。

娘にとっての父である自分、妻にとって夫としての自分、両親にとって息子である自分、これら代替のきかない役割と比較してやり甲斐を小さく感じてしまう。

※もちろん、近い中で、自分に合いそうなところ、という複合要素で選んでもらっているのだとしても、1番最初に挙がるのはやはり立地的な動機によるものだと思う。実際独立するにあたって、わざわざ通い続けてくれるお客さんはほぼ0であった。

自分にしかできない仕事をするために

こうして考えてみると、せっかく独立して仕事をするのであれば、わざわざ自分を探し当ててくれたお客さん、わざわざ自分の提供するサービスを指名買いしてくれるお客さんのために仕事をしたいと思う。

それを実現するには、店舗ありきのサービス展開よりもむしろ、自分ありきのサービス展開になるのだろう。

自分の旗を掲げ、自分を知ってもらうことが、イコール自分の仕事に繋がる生き方をしていく。

仕事、提供するモノが自分の生き方と一致したモノであることを要する。

今の自分のテーマは何か。

理想の生き方、人生を探求することだと思う。

身体作りはその基礎であり、健康であることはベースだ。

ベースは整っている。健康な身体を持って、これからは何を探求していくか。

より自由度の高い生き方。

そのためにオンラインベースでの仕事の作り方、どこでも働ける仕組み作りを進めていくのが次のステージになる。

自由に生きるとは何か

自由に生きるということについて、現時点での解をまとめておこうと書き始めたのだが。

やはり自由には、①お金 ②時間 ③健康 ④仕事 ⑤人間関係などの、自由度を測る重要要素があると思う。

そして全ての要素を不足なく持ち続けるため、又は適切なバランスを維持するためには、常に理想と現実のキャップを修正するための具体的アクションが必要になる。

自由に生きるとは、どこかの時点で完成するモノではなく、常に自由を求めて試行錯誤を繰り返すことにこそ、きっと自由に生きることの本質があるのだろう。今はそう思う。